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2010年4月23日 (金)

輸入車に乗るには愛が必要だ

引き続き、僕の著書「国産車の予算でかしこく輸入車に乗ろう」(99年ごま書房刊)より、再録。

第一章
こんな誤解をしてはいないか--
輸入車を狙う前に知っておくべきこと

6・輸入車に乗るには愛が必要だ

個性的なクルマが欲しい、という人は多い。同時に、国産車には個性がない、という人もまた多い。とくに評論家と称される人の中には、ことあるごとにそれを口にする人がいる。しかし、国産車にだってそれぞれに個性はある。いや、あった、というべきか。少なくとも、わが国のモータリゼーションの黎明期には、国産メーカーたちが送り出す新車達もそれぞれに明確な個性と主張を持っていたと思う。

今から40年も前に作られたトヨタ2000GTは、現代でも通用する強烈な存在感を放っていたし、もう少し身近なセリカも、明確な個性と技術を主張していた。歴代カローラにしても、庶民が手が届く、ちゃんとしたセダンとして、つねにその時代をリードできる内容を備えていたからこそ、世界の大衆車になりえた(今現在も、カローラは世界のベストセラーカーだ)。

日産でもフェアレディSP/SRを経て、Zという個性的なスポーツカーがあり、スカイラインだって、スポーツサルーンという明確な個性を、きちんと表現できていた。三菱も個性的なパッケージングに頑健でパワフルなメカニズムを備え、世界選手権ラリーに果敢に挑んで成果を収めたし、スバルは飛行機屋らしい独創性を強くただよわせ、海外のメーカーにまで影響を与えていたのだ。

もちろん、ホンダの個性は言うまでもない。最後発メーカーにもかかわらず、オートバイで培った独創的なハイメカニズムと高性能で、世界を目指して挑戦しつづけている。まして世界で唯一、ロータリーエンジンを量産に漕ぎ着けたマツダの技術や創造性は、世界に誇ってもいいはずだ。

ことほど左様に個性的だった国産車なのに、なぜ今、個性を感じられなくなってしまったのか……。

僕はこれはメーカーの責任ばかりではないと思う。日本人がクルマを愛さなかったせいではないかと考えるのだ。

たしかに、日本人はクルマが嫌いなほうではないと思うし、それを大事にする。新車が出れば誰もがそれを話題にするし、休日の洗車場は愛車をきれいに磨こうとする人で順番待ちができるほどだ。クルマに傷をつけたと傷害事件が起きてしまうことさえある。けれど、それはクルマを愛しているからか、と言えば、必ずしもそうではないだろう。

多くの日本人にとって、クルマとは今も昔も財産であり、見栄の道具なのだ。買って損をしないクルマ、乗っていて恥ずかしくないクルマが選択条件の第一条なのである。だから新車が出るとその財産価値にこだわって人気車が形成されるし(その証拠に、「このクルマは人気車だから、下取りもお得ですよ」というセールストークは、今なお強い威力を持っている)、汚れているとみっともないと思う。

その結果として、ツインカムやターボといったハイメカニズムは話題にはなるが、ボンネットを開けてそのハイメカニズムを愛でる趣味は持っていない。自分の価値観ではなく、人から「いいクルマ」と言ってもらうためのお墨付き用の付加価値でしかないからだ。結局は、見かけと人目でクルマを選んでいるから、そうしたバランス感覚に富んだ三河のメーカーがシェアナンバーワンを維持しているのも、さもありなん、と言っては言い過ぎか。

そうした消費者の思惑に合わせたクルマを作りつづけているうちに、国産メーカーは要領のいいクルマ作りに長けてしまった。内外装は誰にでも愛される、クセのないデザインで美しく仕上げ、たくさんのオマケめいたアクセサリーで飾り、基本性能は必要にして十分というクルマ作りに。

280馬力(今では300馬力オーバーもある)というハイパワーも、それで売れるとなれば絞り出した。けれどどうせそれをフルに発揮して走りつづけることはないから、最高速からキチンと止まる、高価なブレーキを奢る必要はなかった。だって消費者は馬力の数字には敏感だけれど、それ以上に価格に敏感だから、本気で金をかけることはできなかったのだ。耐久性もしかり。10年ももつクルマを作っても、そんなに乗って財産価値がなくならないうちにみんな乗り換えるのだから、必要以上に頑丈に作るために余計なお金をかける必要などさらさらない。

そうして、気づいてみると国産車はどれもよくできている代わりに、馬力や装備や価格といったわかりやすい数字以外に取り柄のないクルマばかりになってしまった。言い方を変えれば、その価格で手に入る物としては相当のレベルを持っているものの、どこかに突出した物を持つことを許されない商品になってしまったのだ。それなのに、新車が出るたびに「個性がない」とこきおろすことは、一生懸命消費者の望むクルマを作ってきたメーカーに失礼というものではないか。

輸入車の個性は、そうした消費者への迎合と妥協をせず、信じるところに従って作られた、ある種の頑固さに依拠している。最高の性能、最高の乗り心地、最高の実用性、最高のスタイル、最高の楽しさ……。国ごとの文化を反映させながら、しかもメーカーごとに突出したそれらの哲学や信念が主張されているからこそ、輸入車は魅力的なのだ。

ただし、こうした輸入車とつきあうためには、愛が必要なのはわかるだろう。個性の強い存在は、人であれ、物であれ、すべての場面で最高の相棒とは限らない。スターに離婚が多いのに得心がいく人は多いはずだ。最高のエンターテイナーが、イコール最高の人生の伴侶とは限らない。そういう伴侶と生活するためには、時に理不尽なヒステリーや思惑のすれ違いを許容できる、愛が必要なのだ。

愛することは、たしかに日本人には難しいことかもしれない。長らく丈夫で長持ちして、文句を言わない女性が人生の伴侶としてふさわしいとされてきたこの国では、惚れて愛して、わがままも受け入れられるだけの相手の長所を見いだす訓練が、決定的に欠けていたのだから。

けれど、せっかく輸入車に乗りたいと思うのなら、それを面倒と思わず、きちんと愛してみてほしいと思う。それも、みんなが欲しがる人気車だから、という理由ではなく、自分の価値観やセンスに合ったから、という理由で選び、愛してやれれば、それに越したことはないのだが……。

●2010年現在の追記
この原稿を書いた当時と比べると、より海外市場におけるプレゼンスが求められるようになった現代では、日本車にもかなり個性的なクルマが出てきている。日産GT-RやZ、ホンダCR-Zにマツダロードスターといったスポーツカーから、トヨタプリウスやホンダフィット、マツダデミオなど、実用車にも、世界のクルマと並べても堂々たる個性を主張できるクルマが増えてきていると思う。

ただし、それを使う日本人のほうは、あいかわらず奥方を選ぶときと同様に、丈夫で長持ちとか、お隣より立派、といった価値観に左右される傾向は今なお強いようだ。とくに地方に行くと、まだそんな声が根強いようで、ちょっと個性的な国産車は、営業サイドから「これじゃ売りにくい」なんて突き上げられたりしている。

もっとも、女性はむしろ個性の表現に積極的で、若い人から年輩女性にいたるまで、自分専用車として意外とこだわったクルマ選びをする人も増えているようだ。クルマの作り手にも女性が増えているが、それも昔のように「女性向けだから花柄シート」みたいなステレオタイプの発想ではなく、長く愛せる、本物志向のクルマを作ろうという気概に燃えていたりする。

まだまだ過渡期ではあるけれど、その意気が多くの男性陣にも伝播すれば、クルマにかぎらず日本はもっと面白くなるのかも、とも思うのだ。逆に言えば、男たちが自信を持てず、無難な方向にばかり行きたがることが、今の日本の最大の問題なのかもしれない。

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